“Runway for Hope”ファッションの力で難民に希望の灯をともしたい !

「革命が起きたとき、私はまだ10歳だった」――。

1979年のイラン革命、その翌年に勃発したイラン・イラク戦争で難民となり、過酷な少年時代を過ごしたSena Omid Vafaさん。その後、国連UNHCR協会の助けによりカナダに移住し、さまざまな大学で研鑽を積んだ彼は、ビジネスマンとして活躍しながら慈善活動に尽力しています。

2006年に日本へ拠点を移した彼は、ファッション関連イベントを通じて難民や震災孤児の支援を行うNPORunway for Hope」を立ち上げました。かつての自分と同じように苦しい立場に置かれた人々に希望を届けるため、ますます多忙な日々を送っています。

そんなSenaさんが毎年実施しているファッションショーとチャリティ・ガラ「Project Runway 2017 Charity Gala ~色とりどりの美しい世界を子供たちへ~」が、929日に開催されました。これまでの歩みやチャリティ活動にかける思いについてお話を伺いました。

――Senaさんは事業家として多忙な日々を送りながら、難民や被災者の支援にも取り組んでいます。その生き方には、イラン革命後にご自身が受けた宗教的迫害、そして難民キャンプでの経験が大きな影響を与えているそうですね。革命が起きるまではどんな幼少時代を過ごしていたのでしょうか。

Sena Omid Vafa(以下Sena):イラン革命が起きるまでは、とても平和で恵まれた日々でした。父は優秀な外交官で、長男の私がまだ1歳にも満たない頃から家族を連れ、世界中のさまざまな国に赴いていました。おかげで私は幼い頃から10カ国以上の国々で生活し、多様な文化に触れながら育つことができました。

――そんな暮らしに変化が訪れたのはいつ頃だったのでしょうか?

Sena:イランで起こった革命が、すべてを変えてしまいました。当時のイランでは、それまで国を治めていたパフレヴィー王朝に反発した人々が、各地で激しい反政府運動を展開していました。そして1979年、ついに国王がエジプトに脱出し、王朝は倒されました。その後、運動の指導者でパリに亡命していたホメイニ師が帰国するとの報を受け、私の父にも帰国命令が下ったのです。

――当時、Senaさんとご家族はどこで暮らしていたのでしょうか?

Sena:父の赴任先のアフガニスタンです。革命時、前政府の命を受けてイラン国外に赴いていた外交官たちは、帰国すれば命はないと考え、次々と亡命していました。そんな中、父は祖国を信じてイランに戻る決断をしたのです。

しかし、帰国した私たちを待っていたのは、自宅軟禁という仕打ちでした。手紙や電話は検閲され、外出も制限される生活です。当時、私はまだ10歳で、何が起きているかはっきりとはわかりませんでしたが、良くないことが起きている実感はありました。

――幼い子どもまで軟禁状態で監視するとは……。政府はなぜ、Senaさんのご家族にそのような厳しい措置を取ったのでしょうか。

私たちが異教徒だからです。イラン国内では、9割の人々がイスラム教シーア派に属していますが、私たちは少数派のバハイ教徒です。新政府はバハイを宗教と認めず、背教者と見なしてあからさまに差別しました。今でも私たちバハイは、イランにいる限り大学に行くことも許されず、就きたい仕事にも就けません。

一方、農村部ではさらに激しい迫害が行われていました。地方の小さな村に暮らしていた私の叔母たちは、家を焼かれ、貴重品や現金を奪われ、故郷からの脱出を余儀なくされたのです。

―― Senaさん自身もその後、戦時の混乱によって家族と離れ離れになり、たった一人でパキスタンの難民キャンプで過ごされたと聞きました。

Sena:家族と別れ、一人で国境を目指すことになった時、父が私の目を見てこう言ったのです。「生き延びて、努力して、名を成しなさい」と。「そうすれば、もし二度と会うことが叶わずとも、父さんは地球上のどこかに、おまえの存在を感じることができる。だから頑張って名を成しなさい」と。このときの父の言葉は、今でも胸に刻み込まれています。

――お父上のSenaさんに対する深い愛情と覚悟が伝わってくる言葉ですね。

Sena:パキスタンへの国境越えは、15歳の私には想像を絶する厳しい道のりでした。6日間、ほとんど飲まず食わずのまま一晩中歩き続けました。でも、どんなに辛く、心が折れそうなときも、この言葉があったからこそ生き延びることができた。私はそう思っています。父のこの言葉は、今でも私の心の支えです。

――難民キャンプでは、どのような生活が待っていたのでしょうか。

Sena:国境を越えた後、私がたどり着いたのは、パキスタンの山あいに位置する都市ラホール郊外の難民キャンプでした。そこには多数の難民に混じって、私と同じようにイランから逃れてきたバハイたちが2,000人ほど身を寄せ合って暮らしていました。

キャンプでの生活は、過酷を極めていました。冬の寒さは厳しく、食糧は常に不足がちで、水源までは徒歩で数時間もかかるのです。飢えと寒さで病に倒れる者も少なくありませんでした。その一方、たくさんの仲間に恵まれ、多くの支援者に支えられた日々は、とても幸せでもありました。

――キャンプでの生活は2年ほど続いたそうですね。その後、国連の移民プログラムでカナダから難民認定を受けていますが、移民先にカナダを選んだのはなぜでしょうか?

Sena:カナダは自然豊かで治安がよく、教育制度も充実していたからです。当時の私は、父との約束を果たすためには高い教養と学問を身につけなければと思っていました。カナダ東部の都市ハリファックスを初めて訪れたのは、1987年の2月。雪が降るとても寒い日でした。この頃はまだ家族とも音信不通のままでしたし、街にはたった一人の知り合いもおらず、とても心細かったのを覚えています。

――カナダの大学を卒業後、奨学金を得てアメリカのハーバード大学や日本の京都大学でも学んでいますね。またイギリスのケンブリッジ大学では、難民問題と国際安全保障の分野で博士号も取得しています。尽きせぬ学びの意欲はどこから湧いて来るのでしょう?

Sena:やはり父との約束を果たしたい、そして父の背中に追いつきたいという思いがベースにあると思います。父は頼もしく、教養にあふれ、スマートでとてもおしゃれな人でした。いつも高い理想を持ち、政治犯として刑務所に入れられても毅然とした態度を貫く高潔さを持っていました。そして父は、まだ幼い私に哲学書を与え、チェスを教え、人生の価値とは何かを語り続けてくれる、教育熱心な人でもありました。

――お父上を心から尊敬されているのですね。そんなお父上、そしてご家族と再会できたのはいつでしたか?

Sena:母国を逃れてから、じつに14年後です。当初はイランに残った家族と一切の連絡が途絶え、生死さえわからない状態でした。その後、父や家族たちが軟禁を解かれ、オーストラリアに逃れたという噂をバハイの仲間たちから聞き、すぐ現地に飛びました。まだインターネットのない時代に、人づてを頼りに消息をたどり、ついにシドニーにいた家族を探し当てたのです。

それはまさに奇跡のような瞬間でした。もう二度と会えないと思っていた家族と、生きて会うことができたのですから。今でも彼らはシドニーで幸せに暮らしています。父も母も元気で、弟と妹は家族を持ち、新たな命も誕生しています。

――長い過酷な日々を経て、ようやく平穏で幸せな日常を取り戻したのですね。家族との再会後、何か心境の変化はありましたか?

Sena:これまで辛いこと、絶望しそうになったことを何度も経験しました。でも今はこう思えるんです。私の人生に起こったことはすべてギフトである、と。そのギフトによって示された道こそが、私のミッションであり、私が人生をかけて取り組むべき課題なのだと感じています。国連やカナダ政府が私を苦境から救い出し、新たな希望を与えてくれたように、私も同じ立場にいる誰かの助けになりたい。「Runway for Hope」のコンセプトも、そんな強い使命感から生まれました。

――「Runway for Hope」はどのような人々をサポートしているのでしょうか?

Sena:私たちが支援するのは、宗教や貧困を理由に国を追われた国内外の難民たち、そして親を亡くした孤児や自然災害の被災者たちです。

――「Runway for Hope」はファッション・イベントを中心にチャリティ活動を行なっています。なぜ支援の方法としてファッションを選んだのでしょうか?

Sena:ファッションのエンターテイニングでポジティブな力は、多くの人々の心を惹きつけます。ファッションの力を使えば、より多くの人々の意識を難民問題や被災者支援に向けることができる。そして、チャリティの参加者自身も、慈善活動をより楽しむことができます。ランウェイは世界で最も華やかな場所の一つ。だからこそ、世界で最も希望を必要としている人々に、このランウェイから光を届けたいのです。

――「Runway for Hope」による被災者支援のためのファッションショー「Project Runway 2017」が、今年もまもなく開催されます。2015年から毎年開催されていますが、具体的にはどのようなイベントなのでしょうか。

Sena:国内外で活躍するデザイナーやアーティスト、モデルといった方々をお招きし、ファッションショーやライブショーを行います。イベントのメインとなるのは、チャリティオークションです。毎年、さまざまな協賛企業から出品いただいています。今までに「フランク・ミュラー」からRunway for Hopeのためにオリジナルで作っていただいた時計、「リッツカールトン」「シャングリラ」より特別なラグジュアリー宿泊券、「桂由美」よりパリコレ出展友禅ドレス、「資生堂」ザ・ギンザコスメ、「エトロ」よりコレクション出展バッグ、「ポメリー」や「ピーロート」よりビンテージワインやシャンパン、そして毎年会場となっている「六本木ヒルズクラブ」、など、多くの企業からの温かいご支援をいただいております。

集まった寄付金はすべて、助けを必要としている子どもたちの教育・留学のための東京での教育プログラム、海外留学プログラム、また長期的な奨学金制度などの機会提供のために使われます。過去2年間は東日本大震災に被災した高校生の米オレゴン州への留学費用に使われました。海外での経験を通じて、子どもたちにはグローバルな視野と困難に立ち向かう力、そして明日への希望を見つけてほしいと願い実施いたしました。

――最後に、Senaさんの「希望」についても教えてください。

Sena:そうですね……。私の希望は、5年後にRunway for Hopeの活動をより大きな価値あるものにし、日本国内のみならず海外の各地で活動を広げていくことです。難しい目標ですが達成する価値があると私は思っています。多くの人に助けられて、今の私がある。だからこそ、もっと社会に恩返しがしたい。

日本や海外でもチャリティガラのみならず、セミナーや講義を通じ、私の経験や知識を多くの方々に伝えていく活動を継続し、この世界を希望の光であふれる場所にするために、私はこれからも全力を尽くすつもりです。

Writer: RISA SHOJI